前回の『その3』、酒と仕事と男たちのお話でした。
人生でもっとも過酷だった灼熱の夏が過ぎようとしています。
新入社員として入社した4月からは姿形もまったく別人。
人生で初めてのメガネ君は、半年で10Kgも痩せてる。
スーツにネクタイ姿から、汚れも落ちない作業服に安全靴。
製造業の世界にも慣れ、それが日常となっておりました。
もちろん、毎日が過酷、でも先輩や周りの人たちも優しく居心地もよくなっています。
社会人1年目なのに、製造業でのバブルの影響もあって、同期の営業マンたちより格段によかったんです。
(これは当時、内緒のお話。就職先の会社からと、出向先の工場の両方から収入があったのです!)
そんな新入社員の出向者、過去の先輩に比較してもわたしがもっとも長い工場勤務期間となりました。
本社の人事課もなぜか東京支店配属が決定しながら、ひとり残した新入社員のことを思い出したようです。
そろそろもともとの所属先会社から、『工場勤務を終了し、東京支店に赴任しなさい』、との伝達。
あれだけ嫌っていた東京、ですがこの地獄のような鍛造工場勤務から逃げ出せるなら…
『おら、東京さ行くだ!』
となるはず。。
ですが、当時のわたしは、ここで相当悩むんです。
この8カ月で、仕事に対する価値観というものがまったく変わっています。
少し前に就職活動をしていた時の自分。
毎日耐えながら危険を承知で日々の現場作業、夜は終わることのない製図。
満員電車で通勤、エアコンの効いた綺麗なオフィスで営業。。
22歳の若造がこの時点で、幸せとは何かをすでに考えている。
このまま残ってもいいのではないか…
人事にこのまま出向ではなく、正式に所属先変更を申し出ても…
そして、これも今だから話せることです。
当時の工場トップの方からも、残ってもいいぞとのご達示。
『残ります。』のひとことを言えば、トップダウンでこのままのやりがいある仕事を続けることができる。
もうすでに、法学部出身の自分、製造業が大好きになっていたのです。
何の価値もない、生き方を狭くするだけのプライドもすでにありません。
大学を卒業をして間もない自分ながら、きっとこれからの人生を大きく左右するだろう選択の機会が訪れています。
ただの新入社員の立場でありながら、選択の余地をいただけることだけでありがたいこと。
今でもよくよく考えます。
あの時、工場勤務の道を選択していたら、今の自分はなく、もちろんニュージーランドにもいない。
スポーツの世界も、医療の道もまったく人生の中に存在しません。
迷い決めた道に後悔しているわけでもありませんが、正解も不正解もありません。
結局、わたしは工場を離れることを選択しました。
やはり、まだまた色々な経験をしてみたかったのです。
つらくも温かい人々の中に留まることをしませんでした。
社会人になって最初の経験が鍛造工場、製造業だったのです。
これがその先の人生に大きく影響していることは間違いありません。
それが良くも、そして悪くもでしょう。
どれほど、物を作り出すことが素晴らしく、大変なことか。
今でも自分が書き上げた図面が、現実に製品となった時の歓喜、一生忘れない。
物は変われど、物を作り上げるという段階、方法も基本的には変わりなく、それを学べたことは今でも大切な財産。
『製造業が仕事の中で最高!』
これは今でも思い続ける、変わりなく。。
これから先の自分、将来色々なことを経験していく。
肉体的にも精神的にも相当につらいことを味わいます。
そんな時、必ず思うこと、考えること。
『○ ○ よりはマシ!』
○ ○ には、この工場名が入ります。
限界かもしれない、もうダメだ… と追いつめられる度に、○ ○工場勤務の方がつらい、それに比べたら今はまだ楽なはず。。
そう、22歳の時の経験が、その後の人生において何度となく助けとなったのです。
『○ ○ よりはマシ!』 がベースに今までも、そしてこれからもあり続ける。
ですが、、、
良いことばかりか、といえば、そうでもないかもと思うこともある。
あのつらい時に、『○ ○ よりはマシ!』などと無理せず、逃げていたら、あんなことにはならなかったのではないか?
人並みのことですませ、我慢せずに、あんなことをしなかったら、きっともっと違う、普通の幸せな人生を送ってたんでない?
そんなことも考えてしまうのも本当です。
人生の選択には、正解も不正解もやっぱり無いですよね。
少し時間を巻き戻します。
工場勤務の最終日、職場のみなさんにお別れの挨拶をしてまわります。
ですが、なぜかこの時、S部長がいない。
研修が終わった翌日から現場でケツを蹴られる。
現場で常に目を付けられ、どやされる。
現場あがりの自他共に認める、怖すぎる上司です。
自分が頑張って書き上げた図面をチェックしてもらうと、破り捨てられ、また怒られる。。
気が付けば、色々なことを教わり、もっともお世話になったS部長。
部長に挨拶できずに、東京に発つことはできません。
わたしはS部長の自宅に車で訪れ、すでに帰宅していた部長に玄関先で挨拶です。
「部長、お世話になりました。明日、東京に行きます。」
あの時を忘れることはない。
その瞬間、部長が号泣してくれたんです。
それを見て、わたしもただただ大泣きするしかありませんでした…
それから13年後、わたしは福井県で柔道整復師として整骨院を開業しています。
そこに、部長と奥さんが訪ねてきてくれたのです。
嬉しくて、嬉しくて。
頑張って、よかったなと思えました。
今でも感謝しています、ありがとうございました。
もう、下谷部長は、この世を去ってしまいました。
でもこの縁を忘れることはできません。
どうして、あの時泣いていただけたのかも聞けません。
お付き合いできた時間の長短にかかわらず、ずっとつながる縁があることも教えてもらいました。
お線香をあげに行けていないことが、心にひっかかったままです。
行かないとね。。
次回、
『オラ、東京さ、行くだ!』
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