振り返る最後の半年、退職前 その3

人生を振り返る忘備録

前話に続き、大学卒業後に就職した会社を退職する直前の日々です。

1995年 1月 17日
その日は滋賀県に出張予定で朝早く起床。
大阪湾を挟み対岸に位置する大阪南港の公団住宅。
阪神・淡路大震災を経験します。

経験のない激しさの揺れでしたが、幸いにも南港は被害を受けることはありませんでした。
その日の出張は中止、大阪地下鉄もストップ。
大阪市内の道路も各地で通行止め。
それでも原付バイクで出社をしたことを覚えています。

お話は少し変わります。
私の叔父(母の弟)、岐阜県高山市にてカイロプラクティック院をしておりました。
(いや、今もしております!)
この叔父とはきっと遺伝子配列が似ているのでしょう。
今でも身内で仲が良い。

その叔父の師匠が兵庫県芦屋市で、カイロプラクティック院をされておられました。
もちろん芦屋も地震の被害が大きかったのですが、師匠は地震後すぐに、施術費無料で院を始められたのです。

この師匠、アメリカ帰りで非常に個性的、カイロプラクティックの世界では日本でも相当に有名な先生でした。
この先生を助けるように、叔父から頼まれたのです。

震災後、兵庫県内の鉄道も断続的ながら復旧路線が増え、麻痺回復途中の左脚を引きずりながらも芦屋へ。
すでに鍼灸専門学校の入学試験直前の時のことです。
ですが瓦礫がいたる所に転がる中を芦屋の街を歩き、先生のカイロプラクティック院へ向かいます。
やはりこの先生、恐ろしい…
黙々と言われるがままに、お手伝いです。
週末や退社後の時間はほとんど芦屋通いとなりました。

もちろん私はカイロプラクターになる気持ちはまったくありません。
私にはカイロプラクーが日本では国家資格でもなく、文部省認可の学校もない。
つまり、日本のカイロプラクティックの学校と呼ばれるところを卒業しても、国が認める資格も取得できない。
カイロプラクターになるなら、欧米で6年間大学に通い、ドクターとなるしかない…
そう私は納得していたのです。
ただ叔父に頼まれ、そして震災後のボランティアをしている自分がいただけのこと。
カイロプラクティックの技術にもまったく興味がないままのボランティア。

会社、ボランティアをしながら、震災後の2月を迎えました。
コツコツと受験勉強をして、3校の大阪市内、目指した鍼灸専門学校の入学試験を受験です。
もちろん会社には内緒で!

受験後の手応えは、とんでもなく良い。
そのうちの1校では、全科目90点以上はあるんでない?

ですが、最初の2校とも不合格…

そしてラストの3校目の受験が終わった後のお話。
その専門学校OBから連絡がありました。
かいつまんで言えば、その内容は、
「入学時にいくら寄付金を払えますか?」

その連絡に私は驚きつつ、素直にギリギリの金額を伝えるしかありません。
すると、「その5倍は寄付していただかないと、やる気を学校に示すことができません。」

その金額は、当時の年収を余裕で超える額。
無理に決まってる…

というより、私はしっかり悟ったのです。

なるほど、そういう世界なのか…
入学試験などは、もうただのお飾り…
噂には聞いていたが、本当にコネ、カネ。
目指す鍼灸専門学校入学というものに冷めた瞬間です。

その後、実情を納得しました。
当時の鍼灸、柔整学校は非常に独特で狭い世界。
修行という名目で長くタダ働きをした後、その師事をした先生から推薦を受ける。
もしくは親が医療の世界で働き、そのコネ…
そうでなければ専門学校には入学すらできない。

鍼灸専門学校に行くのは今ではない、その時ではないんだな。
そう思いつつ、会社の退職もスポーツトレーナーを目指す決意も変わらない。
さて、スポーツトレーナーの専門学校に行くことも考えましたが、学校見学をしてもしっくりこない。
介護専門学校も見学してみたら、その場で合格です!と言われる始末…(笑)

2カ月後には退職を決意しているのに、さてどうしたものか…
そんなことを密かに迷いつつ、芦屋通いのボランティアを続ける日々。

相変わらず無駄口をすることなく、ひたすら指示そのままに働く。
そんなボランティア、芦屋の頑固で恐ろしい先生に、なぜか私は可愛がられます。
もちろん自分の弟子の甥っ子だということもあったのでしょう。
私も退職を決意して、鍼灸師になってスポーツトレーナーになることだけは伝えてあります。

そして2月末のこと、3校とも不合格だったことは先生に伝えてありません。
何かを私に悟ったのでしょうか…
先生から、
「東大阪のカイロプラクティック院に行きなさい。もう学校には話してあるから。」
ポン!と渡されたのは、カイロプラクティック専門学院のパンフレットと申込書。

なんとも凄いタイミングで…

「お前が最後の弟子になりそうやな~」
日頃は怖い顔の先生が笑って私に言いはる。
その言葉をいただいた瞬間、冷静にそういうことなんだな…と人生の流れを納得。。

カイロプラクティックの学校パンフレットを手に、瓦礫いっぱいの街を芦屋駅への帰り道。
自分の進む道がこのように決まっていく不思議さ。
それが正解なのか、どうかさえわからない。
それでも、「はい、入学します。」と答えた自分。

こうして退職後の道は決定したのでした。

1995年3月初旬、退職願をカバンに入れ、オフィスの扉を押す朝が訪れます。

つづく

ニューランド留学は、ヨッテコット。お気軽にご相談を。
ニュージーランド現地ツアーも、ヨッテコットにご相談です。

コメント