振り返ると、カイロプラクティックの学校#1

人生を振り返る忘備録

大学卒業後、新卒として就職をした会社を退職。
そして選んだ道は、カイロプラクティックの学校に通うこと。
そのいきさつは、「退職前 その3」を読んでいただくとわかります。

退職をして10日もすれば、学校が始まりました。
大阪市の南港にあった自宅から、東大阪市の学校まで。
ニュートラムと地下鉄を乗り継ぎ、ちょうど1時間ほどの通学時間。

朝9時の始業に間に合うように家を出る。
ですが、食品工場の夜勤を終えて帰宅するのは午前6時…
睡眠時間は…… きっと2時間ほど。。

それでも銀行から借金をしてまで通う学校です。
絶対に休みことなどはしません。
学費はすべて自分が稼いで払うんです。

それにカイロプラクティックの学校は、文部省認可の学校でもありません。
当時のカイロプラクター養成校は、通常が1年ほどで修了。
下手をすれば1か月や、10回ほど講習を受けるだけ。
それで、ハイ、あなたは、カイロプラクターね!
そんな世界、今ももしかしたらあまり変わりがないのかもしれません。

それを納得をしたうえで選んだ道。
その道はわざわざ遠回りをするかのように、全日3年制。
月曜から金曜まで毎日通学、3年間で修了の学校。
当時の養成校では、もっとも長い通学期間でした。

このへんから、自分らしい選択とも言えます(笑)

なにはともあれ、過酷な食品工場、睡眠時間もない毎日。
毎日がフラフラ…
それでも会社を辞めた危機感もあり必死。
20代後半だからこそ、無茶をできた…
そんな経験が人生であるのは、なんとなく良いものです(笑)

あぁ~ あの頃、お金もなく寝る時間もなかったな……
無茶苦茶ツラくて、働いて、勉強して…

学校の授業は初めての世界です。
ここで初めて、医学というものを学ぶことになります。

解剖学、生理学、スポーツ医学…
その教科書は、鍼灸専門学校で使われるものでした。
入学を断念した鍼灸の学校。
ひとまず教科書だけは同じ、それが医学を学ぶスタート。

その後、日本語でも英語でも医学を再度学ぶことになります。
そんなことは露知らず。

この学校での医学は今思えば、基礎の基礎。
ただ基礎医学の講師さんがとっても熱心だったのはラッキーでした。
もちろん熱心な学生だったので(笑)

でもクラスメートの学生たちは色々。
自分のように社会経験をした学生はやはり必死です。
ですが、20歳前後の学生さんはね!(笑)

早々に退学をする、というか学生は消えていく。
学内でマルチ商法を広めて、消える…
仕方がない、卒業の先に国家試験があるわけでもない。
必要なのは、それぞれのモチベーションとやる気。

などと言っても自分のモチベーションも怪しいもの。
さっぱりカイロプラクターになりたいわけでもなく、目指すスポーツトレーナー。

思いはあっても、まずは基礎医学を学び、患者さんと向き合う。
そんな土台がなければ、その先はないはず!
そう思い込まないと、過酷な日々は乗り越えることができなかった。
それが本当のところでしょう。

何よりも考えたり悩んだりするより、生きることで精一杯の勤労学生。
まさか勤労学生の時が、この先に長~く、長~くなるとはね…(笑)

食事は、ほとんど食品工場の賄い。
頑張って生きていました。
安定を捨てた自分の幕開けです。

(当時の写真が全然ありませんでした。
そんな余裕すらなかったのでしょう…)

つづく

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