過酷な食品工場勤務、振り返る… その1

人生を振り返る忘備録

会社を退職して1週間が経った頃、ここは事務所のソファー。
対面に座る面接官から、
「今までの仕事とはぜんぜん違うよ。。」
そう言われたことだけを、なぜか鮮明に覚えています。

あと3日もすれば、カイロプラクティック専門学院への入学も待っている。
だが、勉強だけをすればよいほどに恵まれた状況ではない。
働きながら、週5日の通学を
何よりも食べていかねばなりません。
まさしく、食べていく…

食べていくのに、もっとも適しているのは、食べ物をつくる食品工場だ!
新たな働き先を選ぶ理由は単純ながらに明確。

大阪市住之江区南港の自宅から、徒歩5分。
これからの多忙な日々も加味して、この条件も文句なし。
こうして面接を受けた食品工場。
結果は採用です。

週6日、夕方6時から朝5時までの深夜勤務。
1時間の休憩時間をのぞき、10時間労働、時に残業あり。。
時給は確か夜間で1,200円。
よし、これで手取り20万円は確保だ!
そんな思いで新たな職場へ。。
身分的には、正社員でもなくアルバイトでもない。
現在で言えば契約社員的な立場での勤務です。
社会保険もありました。

この時には、先のことや勤務内容など、さほど深く考えてはいない。
ただただ、食っていくぞ!
いわば、サラリーマン生活から離れて、安定した生活からドロップアウト。
その不安感を紛らわすために、必死だったのでしょう。

冷暖房の効いた綺麗なオフィスで、スーツとネクタイ姿。
そんな日々から、今度は全身真っ白。
きっとテレビなどで観ることもよくよくある作業中の姿。
白い衛生用帽子、白く大きなマスク、上下の食品工場白衣姿。
(写真の帽子は緑ですが、お許しを)

ピンぼけの写真、これは私なんですが当時のものではありません。
ピンぼけなのにも理由がある。
このお話はまた違う機会に(笑)

ですが、製造業というものには、何の違和感もありませんでした。
むしろ好きで選んだといってもよい。

新たな勤務先となった食品工場の説明を少し。
もちろん、すべて当時のお話です。
(25年ほど前のこと 笑)

メインの製造品目は、当時の大手スーパー、イズ〇ヤとジャ〇コのお惣菜を製造。
当時でもけっこうに大規模な工場でした。
24時間稼働、ほとんどの職員はおばちゃん。

大きく工場内の業務を分けると。
食品加工(まさしく総菜を製造)
盛り付け(決まった器に、決まった量を)
仕分け(ジャ〇コ、イズ〇ヤの各支店からの発注数に合わせて、完成品を店ごとに分けていく。)
自分が配属された先は、「仕分け」部門。

勤務最初には、部署をまとめる若い正社員さんに仕事内容を教えてもらいながら。
そして部署の先輩に、時に文句を言われながら、でもほぼ無視されながら始まった勤務でした。
なかなかに大変な職場であったのは、この先すぐに知ることとなります。

とにかく、夕方5時半すぎに自宅を離れ、5分で工場到着。
着替えと準備をして午後6時業務開始。

午前5時、残業がなければ終業。
午前5時半頃、睡魔と疲労濃く帰宅。

そしてカイロプラクティックの学校が始まれば…
午前8時、自宅を出発。
午前9時、1時間の通学時間で学校に到着。
午後3時、授業終業。
午後4時、自宅に帰宅。

午後5時、工場に向けて出発
……

ん~ いつ寝てたんだ?
どこにそんな時間があるんだ?

ちなみにカイロプラクティックの学校は3年間。
さぁ、人生でもっとも身体的に過酷な時代が始まったようです。

その2 に続く。

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