前回、『その2』において、過酷極まる新開設、千葉営業所での営業の日々。
入社3年目を終えようとしても、そんな毎日は変わりありません。
飛び込みでの営業で、ドヤサレ、物を投げられ、無視され…
新たな新規先を何とかつなげておこうと、小さな仕事でも何でもこなしていました。
トラックを自ら運転し、納品と営業を一緒にこなします。
それでも大阪の本社から言い渡されるノルマなど、誰も、営業所全体でも達成すら夢の夢。
すでに誰の目にも、この営業所開設自信に問題があったことは明らかでした。
それでも、営業所の上司やもっと上のお偉さんが何とか掛け合うこともなく。
つらい思いをして、生活すら苦しくなっていくのは末端の営業マン。
とうとう退社をする先輩もでてきます。
会社というものには、研修がつきもの。
そんな時、私にも同期入社組が大阪に集まり、研修を受ける機会がありました。
研修というよりも、きっと入社して3年経過後の様子見、判断材料の意味合いがあるのは当然のことです。
久しぶりの大阪で研修を受け、他の同期営業マンのお話を聞いていると、何ともそれは別世界。
とんでもなく、私には優雅なお気楽な営業に思えました。
そこで、まだまだ若く血気盛んなわたしは、研修において、千葉の現状を思いっきり吐露します。
いかほどに過酷か、いかほどにみんなに我慢を強いられているのか…
ですが、しょせんまだ社会人として3年しか経過していない若い社員の集まり。
だれも、そんなことを気にかけることもありません。
そんな若者も、四半世紀が過ぎた、本当にちょうど今日のこと、大阪で同期会があったようです。
その模様がつい先程、飲み会中の写真が送られてきました。
時の流れというものは残酷なものです(笑)
今回も同期の一人が新たな道を進む門出を迎えたようです。
遠くニュージーランドから失礼します。
お疲れさまでした。
これからも、お互いに頑張りましょう!
話がだいぶそれました。
そんな研修を担当する人事のみなさんだけが複雑な眼差しで私を見ていたことを覚えています。
研修も終了して、再び千葉にもどります。
1人、2人とすでに退社をして人数も自然現象をしていた頃。。
突然、わたしに新たな辞令がおります。
『大阪本社、oo課への転勤を命ずる』
なんと、営業職を離れ、大阪本社の管理部門に転勤辞令がおりました。
きっと、先の研修において、営業職としては見切りを付けられたと私は判断しました。
実はすでにこの時点で、3回の退職願を提出しながら、上司に破り捨てられている状況。
この時には、千葉を離れる時には、退社してもいいかなっと思っておりました。
ですが、先輩方の意見は違います。
「いいチャンスや、ここから脱出できて、大阪に行け! 栄転やで!」
確かに、はたからみたら、本社管理部門に栄転ではあります。
ですが、私の中にはまるで逃げるかのような転勤が納得できないでいました。
それでも、先輩社員さんは優しく送り出そうとしてくれます。
結局、わたしは大阪本社への転勤を決意し、関東を離れることにしました。
それにしても、たった4年目の社員。
製造工場 → 東京支店 → 千葉営業所 → 大阪本社
なんとも自分の人生をここでも象徴するような落ち着きのなさ(笑)
まだ私は一番の年下社員だったため、自分の送別会を自分自身で仕切り、最後には泣いて終わったことを今でも記憶にあります。
こうして東京支店、千葉営業所の時代が終わりました。
その後の千葉営業所、ほどなくして営業所はなくなります。
1人の先輩をのぞき、全員が退社していきました。
あの時の優秀なメンバーを思えば、本当に会社が人材を犠牲にしたと今でも思っています。
ですが、私にとっては、本当に貴重な経験として、後々に生きてくるのです。
もし入社後、順調とはいえずも問題なく会社員生活をしていたら…
絶対にその後の落ち着きない人生は送っていません。
働きながらの学生生活を、その後に6年以上することにはなりません。
国家試験を3つも取るような人生はなく、もちろんニュージーランドにもいない。
もしかしたら、今日、大阪で同期と一緒に楽しく飲んでいたかもしれません。
もうずっと昔に退社しているのですが、今でも本当に尊敬できる同期たちです。
本当にね、答えは神様、お天道様だけが知っている。
何がどう影響し、何が分岐点となるのか…
自分はこれから、人よりも多い人生の十字路での選択を迫られていくことになります。
さぁ、関東を離れ、大学生活を送った大阪の地にもどりましょう。
この時、弱冠25歳。
神様のいたづらとしてはあまりにもツライことがすぐそこに待ち受けております。
次回から、大阪勤務時代のお話です。。
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