カイロプラクター Y の時代を振り返る ♯3

人生を振り返る忘備録

前回 #2 では、ようやくカイロプラクターとして少しだけ前が見えてきました。

毎日曜日だけ開院していた公民館2階でのセラピー。
コツコツと足を使った営業の結果、初めて予約をいただき施術をすることができました。

何の動きもなかったものが、ひとつ壁を抜けると、一気に動き出します。
これはどんな世界でも不思議と同じこと。
さっぱりうんともすんとも反応なかったものが、ひとつ動き出すとそれからはとめどなく…

週1回だけの公民館セラピーも、予約枠がいっぱいになり出します。
公民館の優しいおっちゃんを通して、許可された2階のお部屋。

ですが、住民のための公民館です。
何かあればお部屋の使用もそちらが最優先。

お葬式。。

こちらがあれば、セラピーの予約がいっぱいであろうとも、お部屋の使用はキャンセル…(泣)
こればかりは何ともなりません。

おっちゃんから、
「ごめ~ん、お葬式入ってもうたわ…」

それは仕方がありません。

またお葬式でなくとも、隣のお部屋で合唱団の練習があれば。
これはこれは、とても施術ができる雰囲気ではなくなる。

トランペットは太鼓の音がけたたましい中では、とても施術はできない(笑)

これまた仕方なし。。

こうして週1回の公民館カイロプラクティック院は、なかなか難しいものがありました。
ただ、障子が破れた公民館のお部屋で始まったカイロプラクティック院。
これが私の思い出深き自営業者として、施術者としてのスタートです。
大切な経験。

公民館のお部屋で知っていただくと、日曜日以外の出張セラピーも忙しくなります。
重たい折畳みの施術用ベッドを、カートに乗せて転がし運ぶ。

広大な敷地の中、予約時間に合わせて、マンションや公団住宅をまわります。

冬は寒い…

夏の暑さはもっとツライ…
階段の陰に隠れてシャツを着替えてから、お部屋のチャイムを鳴らす。
折畳みベッドを開き、セットをして施術をする。

そんな毎日が続きます。

もう必死でこなしていきます。
知らず知らずのうちに私のカイロプラクティック・テクニックも向上する。
口コミによって、予約が難しくなる。
有難いことに、名前も広く覚えていただくようになりました。

こうして修行をさせていただいた整骨院も辞めて、自営業者として生活をしだします。
思いかえせばサラリーマンを辞めて4年が経過。
ここでサラリーマン時代の収入を越えることができていました。

自身の院を持っていない分、家賃もゼロ。
申し訳ないお話ですが、利益がとても大きかった時です。

ただその分、体力は相当に削られる。
施術、移動、施術、移動、どこかで休憩、施術…

確かにツラくもありました。
ただまだ若かった(笑)
1日2時間ほどの睡眠時間で、夜勤の食品工場と学校の3年を経験。
文句を言っている時ではなく、経験を積む!
貴重な収入を貯める!
そんな時が続きました。

そして、決断の時。
自分自身のカイロプラクティック院を持とう!!

そう決断したのは間違いない。
頑張って貯まった資金もありました。
ただ普通であれば、それまでのクライアントさんが通っていただける大阪で開院するはず…
今の自分ならそうするぞ!(笑)

何を考えていたのでしょう?
地元を持たない、ヤドカリ人生の性(さが)のなせることか…

「よし、都会の大阪を離れて、もっと田舎で開院しよう!」

こうして大阪市住之江区での「Y カイロプラクティック」を閉院。
滋賀県に引っ越し、新たな「Y カイロプラクティック院」を開業したのでした。。

ん~
またゼロから始めることを当時なんとも怖がっていなかった…
確かに経験を積み、テクニックも上達。
自営業を営む経営者として生きる術(すべ)も少しわかってはきた時。
だったはずですが…

わかりません。
ただのアホなのでしょう(笑)

とにかく、カイロプラクターとして、滋賀県にて2度目の開業をするのです。
この時すでに?
まだ?
30歳の時のお話。
この先、落ち着くことなどまったくないのでした。
相当のおバカ、ドアホな人生は続きます。
案の定、経営者としても失敗を経験するのですが、それはまだ先のお話…

つづく

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