振り返ると、カイロプラクティックの学校#2

人生を振り返る忘備録

そう、つまり生きることで精一杯の勤労学生でした。
と、いきなり始めてもなんのことやら。。
前回#1の続きとなります。

とにかく、睡眠時間は2時間ほど。
必死で夜勤の激務をこなし、学校に行く。
勤務中の休憩時間を惜しんで勉強する。

そんな毎日が2年ほど結局は続きました。
人生で肉体的にもっとも無茶をした時ですね。

この2年間で、前回もお話をした通りに初歩の基礎医学を学びました。
骨(こつ)、筋(筋肉)、内臓、脈管(動脈、静脈)の名前や働きを覚える。
それと並行して、生理学を学びます。

ただ生理学は、高校まで苦手としていた理系の一環として、嫌いなまま。
この苦手意識は、数年後に克服することとなります。

今、思えば、生理学は解剖学を学び、人体の構造を理解してから学ぶべき科目です。
それはそうだ、生理学は人体の各器官や組織がいかに働き、機能するかを学ぶもの。
各器官を知らなければ、理解もできない。

こうして2年間の座学をしながら、徐々にカイロプラクティックの実技も学びます。
ただどうしても実技の授業は学校だけでは物足りなく、仕事の休みを利用して色々な勉強会に出かけます。
徐々に広がるカイロの世界を泳ぎ、活躍するカイロの先生方のもとで勉強させていただきました。

そしてカイロプラクティックの状況もわかってきます。
カイロプラクティックには、多くのテクニックが存在。
ディパーシファイド、ガンステッド、アクティベータ…

それは仏教にも多くの宗派が存在し、教えにも違いがあるように。。
カイロの先生には、ひとつのテクニックを信じてそれを極める方も多い。
そうなれば、カイロプラクティックに対する考え方も様々です。

よく巷でも聴くことば。

「ズレてるから治そう!」
「骨盤のズレが問題!」

私にはどれが正解で不正解かはわかりません。
正直に、今でもわかりません。
「ズレてる」という概念は、まったく理解できません。
レントゲンを診て、直線から外れたところを真っすぐに並べたらいいん??
疑問に思いながら、悩みながらも学ぶ日々でした。

しかしながら、日本以外の欧米諸国では、カイロプラクティック医学の分野はしっかり構築されている。
日本のように、国家資格もなく、学校の修業年限もバラバラ。
決まった履修内容もない。
そのような曖昧の世界ではありません。

カイロプラクターとなるためには、カイロプラクティック大学における6年間の履修後にライセンスを得て、ドクターと名乗る領域であることは海外での事実。
(ここ、ニュージーランドにおいても、カイロプラクターとして開業するには、6年間の大学履修を修了し、ドクター オブ カイロプラクティック のライセンスが必要です。
欧米で長い歴史をも有するカイロプラクティック。
何らかの治療効果があることは否定できません。

結局、わたしはどのテクニックにも邁進することもできずにいました。
性格上、ひとつのテクニックを信じて極める方向にいかない(笑)

それなら、それぞれの良いとこどりをしてやろうぞ!
最初からそう考えていました。
このテクニックでは、ここはいいけど、これはよくわからん…

どんなテクニックを駆使するにしても、指先の敏感さは必要。
その訓練は重要で、学校の実技も有用なことはわかりました。

ただ、ただ、そんなことよりも私には大きな欠陥があったのです。
私には、カイロプラクターに成りたいと意識がとても希薄であったこと(笑)
スポーツトレーナーとして、スポーツの世界で働きたい。
その気持ちはずっと変わらずあったので、トレーナーの勉強も欠かさずにいたのも事実です。

そんな迷いながらの日々でしたが、どうも現実的に認めなければならないこともあったのです。

もしかしたら、けっこうカイロプラクティックの世界でも食っていける?
思いのほか、私のテクニック、経験が浅い割には優秀かも(笑)
自分なりのカイロプラクティックを構築しつつ、技術的にも上達していきます。

何かの遺伝子が発動したのでしょうか?
母方の叔父は、カイロプラクター(現在も高山市で)。
後に知ったのは、母方の曾祖父(ひい爺ちゃん)が、徒手療法をしていたとのこと。
ひい爺ちゃんが生きたのは、きっと江戸時代末期から明治時代初期。
なかなかに遺伝の影響からは逃れられないようです(笑)

まだまだスポーツの世界で生きる道は見えていません。
生きていくためにも、まずカイロプラクティックの道を進んでいく時代がしばらく続きそうです。。

カイロプラクティックの学校も、最終年の3年目を迎えようとしていました。

つづく

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