【No.989】スポーツ・トレーナー時代、振返りも最終章 #6

人生を振り返る忘備録

私の夢を叶えてくれた、アメリカンフットボールチームを離れることになりました。
そして当時の私はすでに自分をコントロールできない、オーバーワーク状態。

そんなことを自覚することもできない。
すぐにトレーナーとして活動できる、新たなアメフトチームを探しだした自分です。

本当はこの時に、少しでもゆっくりと休むことができたのなら…
私の人生はきっと大きく変わっていたはず…
南半球の底に生かされていることもない?(笑)

トレーナー業務は別にしても、経営する整骨院は相変わらず超多忙でした。
毎日を院長として途切れることなく患者さんの施術に明け暮れていました。

それでもやはり私は柔道整復師というより、メディカルスポーツトレーナーとして生きていたかった。
そして私は京都のアメリカンフットボール・クラブチームに、再びトレーナーとして活動する場を求めたのです。
チームスタッフやプレーヤーも温かく迎え入れてくれました。
とっても素晴らしいチームでした。

大企業を母体にした前チームとは違う、クラブチームです。
つまりアメフトが大好きなプレーヤーとスタッフさんが集うチーム。

ちなみに前チームでの活動とは違い、今回は無給です。
そんなことはどうでもよかった。
ただただメディカルトレーナーをできたら、それでよかったんです。
整骨院の収入で十分だった現実もありました。
(収入が十分… なんて言えたのは、これが最後となります 笑)

前チームとの大きな違いは、何よりチームレベルです。
最高峰で日本一を目指すチームとは違います。
やはりプレーヤーのレベルも格段に落ちるのは当然です。
それに加えてプレーヤーの数もぐっと少ないんです。
通常はアメフトはオフェンス(攻撃陣)とディフェンス(防御陣)はそれぞれ別のプレーヤー。
ですが、人数が少ないと両方を掛け持ちすることも多いのがクラブチームのアメフトでした。

テクニックが高くない、各プレーヤーのプレー時間も長くなる。
結果としてプレーや練習中の怪我が想像以上に多かったのです。
それでも遊び半分でプレーをすることもなく、練習もゲームも真剣勝負。

そうなるとまた私は忙しく、もしかしたら前チーム以上に動き回ります。
チームのサポートメンバーも少ないので、よけいにトレーナーとしての負担も大きいものでした。

みんなアメフトを愛し、クラブチームの世界での日本一を目指す気持ちはとても熱い。
私も本当に嬉しくて、必死で頑張りました。
そんなチームで私は、貴重な体験を多く再びさせていただきました。
多くの負傷者をケア、シーズンともなれば毎週のように救急車を呼ぶことも…
再びトレーナーとして活動する時間は夢の続き。

ですが、それも長くは続きませんでした。
自分の限界をとっくに越えていることに気付く時がきたのです。
もう動くことすらできない。
それまでは完璧にできた仕事もできなくなり、正常な判断能力さえあやうくなってしまいました。

そして私はシーズン途中であったにもかかわらず、チームから去ったのです。
いいえ、チームの活動を放り出したのです。

私が社会人として働いてきた経験において、もっとも後悔をする出来事です。
このクラブチームのみなさんにも、謝罪すらできませんでした。
今でも申し訳ない気持ちは変わりなく、時を過ごしています。

それだけではありません。
もう自分の整骨院で働くことも無理になっていました。

私は当時、年に1週間だけ休みをいただいていたのです。
整骨院スタッフには文句を言われながら、お盆休みもとらなかった。
その代わり、今でいうシルバーウィークは整骨院も休院、トレーナー業務も休ませていただきました。

なんとなくやってみたかったこと…
トレーナーとしての夢の他に…

英語をちゃんと学んでみたかったんです。
海外留学なんてまったく考えることもなく、毎日働きまくっていたのですが…
もしかしたら、いつか…
そんなことが頭にあったのでしょうね。

年に1回だけ、英語圏をひとり旅。
それが年に唯一、仕事から離れる1週間。
そんな数年をそれまで過ごしていたのです。

オーストラリア・シドニー
カナダ・トロント
アメリカ・ニューヨーク
アメリカ・シカゴ
ニュージーランド・オークランド

もちろん当時はまったく英語を話すことも聴くこともできない私です。
それでも怖がらずに一人で旅を楽しんでいたのですから、すでに今の私がここに潜んでいます(笑)
まさかに、それから遠い遠い先に…
日本とニュージーランドの両国で、好きな旅行を仕事の場にするとは…

当時の私、自宅にはNHK英語講座のテキストが山積み。
何度も英語の勉強を始めながら、忙しさにかまけて挫折を繰り返す…
そんな人間だったのにね。

私はもはやどうしようもない状況に身も心も追い込まれた結果の決意です。

「留学をして英語を学ぶ!」

そうしなければ生きていけませんでした。
書けば書くほどに言い訳になりそうです…

超多忙だった整骨院、多くの患者さんに申し訳なさを感じつつ…
専門学校の超優秀な同級生だった柔道整復師の先生と契約をして任せました。

突然、整骨院の待合室に張り出した「お知らせ」。
そこには、「1年の語学留学をするため、院長交替…」
(結局、後に同級生の先生にこの整骨院を譲ることになります。)

それまでにひとり旅をした先の中で選んだ留学先、それが…

ニュージーランド

こうして1年間だけと思い、始めたのが語学留学です。
語学留学は、環境を大きく変えて、自分を取り戻しつつの1年でもあったのです。
もちろん英語を学びながら…

そんなニュージーランドですが、幸運にも合っていたのでしょう。
リスタートをする地として、そして英語を学ぶ国としても良い国でした。
日本に比べると物も娯楽も少ない国です。
でも平和で住みやすい国でもあるのです。

日本人留学生さんのサポートを業務として、もう12年。
人生とはわからないものです(笑)

それからの留学生活については、すでにお話を終えています。
よろしければお時間ある時に、ゆっくり こちら からどうぞ。

 

こうして人生の大きな選択により、多くのものを失った。
それも事実。

そして新たなものを得ていくのは、後のことになります。

1年のはずだったのに…
気付けばニュージーランド在住も15年を過ぎてしまうなんて…

鮮明に今でも思い出すことがあります。
日本を旅立つ前日まで、私は残していく整骨院の駐車場で必死に雪かきをしていました。
患者さんが滑って怪我をしないように…
日本海の雪は水分が多く、とても重いんです。

その翌日には成田空港からニュージーランド航空に搭乗。
身も心もボロボロ、機内で泥のように眠ったことを覚えています。
到着前にフライトアテンダントさんに起こされました(笑)

こうして、私はニュージーランドの首都ウェリントンにて、留学生活を始めたのです。

 

やっとです、間に合いました。
ここまで書くことができましたよ。
次回、あとがき にてこのシリーズを終えます。

ニュージーランド留学は、ヨッテコット。お気軽にご相談を。
ニュージーランド現地ツアーも、ヨッテコットに相談です。

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