スポーツ・トレーナー時代、振返りも最終章 #4

人生を振り返る忘備録

北陸の日本海に面した、田んぼが広がる小さな町。
そんな町に新たな整骨院を開業しました。

前回のお話 、開業初日から順調に患者さんも来院されました。
ありがったことに、日に日に患者さんの数も増え続けるのです。

同時に大阪では週末を含めた週2日、または3日間だったでしょうか。
社会人アメフトチームでのメディカル・トレーナー業務も休むことはありません。
(いえ、年に1週間だけお休みをもらいました。このお話は次回にも…)

片道2時間半、冬ともなれば3時間、4時間、車での道のり。
大阪から、京都、滋賀を抜け、雪が深々と降る深夜の山道を日本海に向けて帰宅。

「体を休める」
そのようなことが、頭から抜け落ちていたのでしょう。
それでも整骨院業務は完璧にこなします。

柔道整復師として、多くの貴重な経験をしました。
午前診療では、毎日数えきれないおじいちゃん、おばあちゃんの施術。
地元のスポーツ選手だけでなく、県外からのアスリートもサポートしました。

なぜか怪我人が救急車で整骨院に来たこともあります。
整骨院から5分も歩けば、町の公立病院もあるのに、救急車内で怪我人が強く希望したようで(笑)

その公立病院、整形外科からの紹介状を持った初診の患者さんが整骨院に来たことも。
激痛に苦しむ患者さんの肩関節脱臼を整復をしたこともありました。

病院に紹介状を送ることは数限りなくあっても、病院からの紹介状をいただく。
そのようなことは後にも先にありませんでした(笑)

昼休憩を十分に取ることもできないほどに朝から深夜まで院長は頑張る。
結果として共同経営に失敗した会社への借金返済も、銀行融資返済も問題なく終えることができました。
繰り上げ返済をしても、銀行さんは喜んでくれないのね。
そんなことも学んだり(笑)

そして人生で一番収入が多かったのがこの頃です。
これからの将来を含めても間違いなく!(笑)

ここはいつも以上に上面(うわつら)しか書くことができません(笑)
罪悪感もなく、美味しい贅沢なものもいっぱい食べました。
アメフトの練習が終わったジャージ姿で、高級ホテルにチェックインしたり…
持ち慣れないお金の使い方を知らなかったのです!?

でも人生に一度ぐらい、こんな時があってよかったのかもしれません。
お金で幸福は買えないんだ…
あの時のお金を残しておけばよかった…(泣)
そんな痛すぎる後悔とともに、お金の有難みもわかるようになります!?

今は愛犬とバンで車中泊することに幸せを感じる私です(笑)

柔道整復師として整骨院業務をすること…
それは当時も生きるための手段のように思っていました。
申し訳ないけど…

なによりも私はアメフトチームでメディカルトレーナーとして働く時間が楽しくて仕方がなかった。
もちろん楽な仕事でもなく、過酷なこともあったはず。
ですが、私はツラいなんて少しも思うことなく…

アメリカンフットボールのトッププレーヤーと。
トレーナーの師匠や同僚、実習生たちと。
マネージャーさんやチームを支える多くの裏方さんと一緒に。
日本一を目指し、練習、試合をこなす日々が続きました。

練習で怪我人が出たのなら、現場でファーストエイド。
骨折、脱臼の処置も柔整師としてこなす。
試合中の怪我人を追いかけて走りまわる。
勝てばチームメイトと一緒に喜ぶ。
負けて日本一を逃しシーズンが終われば、ひとり静かに泣く。
多くの貴重な経験、忘れることない大切な思い出とともに。

あれはアメフトチームでの、照明灯が明るいナイトゲームでした。
いつものように試合中、プレーヤーに怪我人がいないかを探し続ける。
メディカル・トレーナーとしてグラウンドに立つ自分がいます。

ふとグラウンドから振り返り、後方に高く広がるスタンドを眺める時間がありました。
応援をする観客がいっぱい、照明の灯りがまぶしく…

あ~ 夢叶ったな…

心から感じた瞬間がありました。

食品工場の夜勤をしながら、3年間カイロプラクティックの学校に。
カイロプラクティック院を経営しながら、片道2時間の通学、柔道整復師専門学校・夜間部にも3年。
そして、柔道整復師、国家試験合格。
実習生として、アメフト・トップチームに運よく参加。

会社を退職してからの10年間、いろいろありました。

長く目指した夢が叶っていたことに気付いた、輝くようなグラウンドでの一瞬。

あの時があるからこそ、私はまだ生きていられます。
頑張ったな

そして頑張り過ぎた…

こうしてひとつの夢が叶った後、そして日本を旅立つ前のこと…
それが次回のお話となります。

ニュージーランド留学は、ヨッテコット。お気軽にご相談を。
ニュージーランド現地ツアーも、ヨッテコットに相談です。

コメント